【第10回】クライミングと環境問題
- 菊地敏之(アルパインクライミング推進協議会会長)

- 2023年10月31日
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文・写真=菊池敏之(アルパインクライミング推進協議会会長)
当協議会の活動は、主に国立公園内での岩場の整備について、その法的な部分をクリアにしようとすることだ。そしてその交渉相手は各自治体と環境省ということになる。
しかしここで、環境省という名前、というか「環境」という言葉が出てくると、クライマーはおそらく皆、首をすくめてしまう。どころか、身を隠そうとすらしてしまうようにも思われる。
というのも、そもそもクライミングという行為が、自然をある程度破壊して行なうものだ。苔は剥がすし、ボルトは打つ。アプローチも登山道以外に平気で入っていくし、時にそこは特別保護地区と称される手付かずの(なんてことは本当はないのだが)原生林だったりすることもある。
そういうことを日常茶飯事的に行なっている人間が、環境問題や自然保護などというものに首を突っ込むというのは、少々無理がある。どころかそこにいるだけでもおこがましい。むしろここはできるだけ目立たないようにして、それらが話題にならない所で、そ知らぬ顔で過ごしたい、と考えるのが、まあ、我々の偽らざる感覚ではあるだろう。
しかし、そこでまた私などは考える。本当にクライミングというのは自然を破壊する行為なのだろうか。我々は犯罪者なのか?そして自然保護というものに何がしか首を突っ込む資格は、我々にはないものなのか。
それについて、少々考え直すべきという立場からの意見を今回は述べてみたい。
自然保護と自然へのコミットメントということ
「自然を本当に守りたいんだったら、そんな自然の中などに行かなければいいんですよ。渋谷で遊んでいたほうが、自然環境にはよっぽどいい」
これは90年代に私が「オペル冒険大賞」という事業をやっていたときに、担当の広告代理店の人が言った言葉だ。
ちなみにこの90年代というのは自然環境問題というものが日本でも急激に叫ばれだしたころで、件の「冒険大賞」にも、環境絡みの活動がかなりの数、報告されてきていた。そうしたなか、本活動の事務局では、選考委員およびアドバイザリースタッフに、海や山の専門家だけでなく、環境問題の専門家らも招いて、各活動の検証をしていた。そのときの会議のなかで漏らされたのが、上の言葉というわけなのだ。
これを聞いたとき、まだ環境問題に疎かった私などは、ああ、そうかもしれないなと思った。そして渋谷で遊ばず山などにわざわざ繰り出している自分が、申し訳ないというか、ほとんど社会の害であるような気持ちにすらなってしまった。
しかしこのとき、選考委員たちの反応はまったく違った。その言葉が出た途端に「いやいやいや」と皆完全に否定の体で、それに私はまず驚いてしまった。そして一般の人たちならたぶん多くがうなずくであろうこの言葉を迷わず否定する選考委員の人たちの見識に、あらためて感じ入ってしまった。
というそのときの委員諸氏の言い分はこうだ。
まず、自然環境に関するさまざまな問題というのは、それに接することによって初めて見えてくる、というか実感する。そのためにはまずその中に、実際に分け入らなければならない。そのために自然に多少インパクトを与えることになっても、これは絶対必要なことだ。特にその問題が最も顕在化した場所、極地や僻地に赴く冒険家というのは、環境問題の最前線での報告者、さらには監視役でもある、ということだ。
また、それ以前にそもそも人は、そうして自然の中に身を置くことでこそ、自然に対する興味や愛情を育む。自然というものに対して敏感になり、それについての考えをもつようになる。それは山に登っている人と渋谷で遊んでいる人の、どちらが自然に対して強い意識をもっているか、ということを考えれば言うまでもないことだ。あるいは子どもの昆虫採集なども同様。頭でっかちの大人は虫を殺すことに眉をしかめるかもしれないが、そうした体験をしてきた子どもたちがその後どれだけ自然に愛情をもつか、大切にしようとするか、というのは言うまでもないことだ。
そうしたことをこのときの選考委員の人たちは主張していたわけで、それが、自然環境問題がまだまだ素朴だった当時、私的にはずいぶんと進んだ意見のように思えたのだ。
と長々昔話をしてしまったが、翻って我がクライミングを見たとき、これはどうだろう? 我々の、例の首をすくめる意識の中には、左の渋谷云々の言と同じものが含まれていないだろうか。というのが今回の主張だ。
クライミングと自然との関わり
この「自然を守るためには自然の中に入らなければならない」という考え方は、そもそもが19世紀から発展してきたアメリカの自然保護思想の、ほとんど大原則といえるものだ。アメリカという国は自然(フロンティア)をつぶしながら発展してきた国なのに、というかだからこそか、いわゆる自然保護思想というものが昔から発達していて、それは世界的にも極めて大きな潮流となっている。
その旗手となったのは、言うまでもなく、H・D・ソローやジョン・ミューアといった人たち。前者は今から150年ほど前、マサチューセッツ州郊外の森に数年間こもってそれを『ウォールデン――森の生活』という書に著して自然保護運動の先駆けとなったし、ミューアはヨセミテやハイシエラに長年滞在して当地の国立公園化やシエラクラブの創設などを行ない、アメリカ自然保護の父とも称された。いずれもアメリカのみならず世界の自然保護の巨人とも呼ぶべき人たちだ。
そうした彼らが掲げたのが、なによりも「自然の中に入る」という考え方だった。これは当時、疑問視も当然されたようだが、それでも彼らはこの意見を曲げなかった。それは保全よりも保存という立場をとったミューアでさえ、自然保護の大前提として繰り返し主張したことだ。
と、知ったかぶりに書いてしまったが、しかしこのようなことを聞くと、我々クライマーはちょっとピクッとこないだろうか。「自然の中に入る」とは、まさに我々がいつもやっていることではないか。しかもその入り方は、有名な何々山を、大勢の登山客に混じって一生に一度登る、というようなレベルのものではない。同じ山にしつこく通い、その最も剥き出しの肌である岩を、血眼になって探り、しがみつきながら日々を過ごしている。アルパインなどをやっていれば、時にその無慈悲なありさまに運命を翻弄されるようなことだってある。
だがそれでもそれを我々がよしとするのは、なによりクライミングというものが、山の本当の姿に密に触れる行為だと理解しているからだ。ただきれいなだけでなく、時に厳しい生の自然に我が身を晒して、直に接しようとする。まさに「自然の中に入る」の究極の形であって、その点では我がクライミングは、人と自然との関わりに関しては相当上位にあるものと言っていい。
ということで、クライマーは自然保護に関して気配を消すどころか、むしろ胸を張っていい。

はずなのだが、そうはいっても環境問題というのはやはり難しい。専門的な知識が多く必要になるし、不断なきアップデートも欠かせない。そんな難しい問題に、素人が簡単に口など出せるものではない。
そう多くの人が思うだろうが、しかしその素人なりの意見を言わせてもらえば、専門家の知識だって実はそれほどたいしたものではない。それはこれらをちょっと聞きかじっただけでも、人によって言うことがあれこれ違い、反対意見も数あることを思えば、嫌でも感じることだ。環境のためにはこれがよいと言われていることでも、少し視点を変えれば見当違い、どころか逆に悪いということだって少なくない。ましてやこの問題は、ある意味、風が吹けば桶屋が儲かるを地で行くようなものだ。何がどう転ぶかわからない。それはかつての割り箸論争などを見ても充分うなずけることだ。
だから我々は、ここに“正しい”答えを出せないからといって、口を閉ざす必要はない。というか、そもそもここに正しい答えがあると思うことに無理がある。学校のテストに人生のすべてを拘束されてきた我々は、とかく物事には正しい答えがあると考えがちだが、環境問題という、非常に複雑な、本来クロスオーバーな考え方をしなくてはならないものに、そうした態度はふさわしくない。まず必要なのは、一元的な“正しい”答えを求めることではない。自然という超絶的なものに接して、実際の皮膚感覚を得、何がしかの意見をもつことだ。そしてそれが、次へと続く問題意識の提起となれば充分だ。と、テスト社会から早々にはじき出された私などは思うのである。
あらためてクライミングを取り巻く環境について
というところでさて、では我々がその自然と深い関係を結ぼうとしているつもりのクライミング、あるいは登山に対する、我が国の環境(これは自然ということではなくて、状況ということ)は、どうなっているのだろうか。
これについては前号で合田氏が触れていたように、まず環境省からはクライミングには公益性がない、と今の時点では判断されている。そしてクライミングに限らず登山においても「環境省が指定した登山道以外に立ち入ることは原則禁止」とされており、しかも本格的な山岳部分の多くを占める特別保護地区では、石一つ、枯葉一枚動かすこともダメと言われている。
このような話を聞くと、私などはちょっとびっくりしてしまう。本稿は一応一般社団法人名義で発信するものなので滅多なことは書けないのだが、これにはやはり違和感を覚えざるを得ない。というのも、これは、要は山に入って余計なことなどせず、渋谷で遊んでろと言っているようなものではないか。上に述べた世の自然保護思想の根本理念に照らし合わせても、むしろ逆のものであるように思えてならない。
確かに、クライミングというものは、自然に対してある程度のインパクトをもたらすものだ。前述したように、苔は剥がすし、草付は引っこ抜く。原生林を踏みしだくこともある。
しかしこうしたインパクトは、おおよそ人が自然と接しようとする過程において、絶対に看過できぬものなのか? 盗人猛々しいと言われるかもしれないが、こうしたことに関して今のクライマーはおそらく相当な節度をもってそれを行なっている。それは今のクライマーがボルト一本打つのにどれだけ悩むか、あるいは時にそれを打たずに自らを危険に晒すことを覚悟するか、ということを見ていただければ充分納得できることと思う。今やクライミングの根本理念ともいえるこうした覚悟は、なにより山=自然に対して、極力フェアに接しようとするが故のことなのであって、つまりそれは、山=自然に対するリスペクトということだ。アメリカの著名な自然保護活動家、アルド・レオポルドに「山の身になって考える」という一文があるが、この言葉はクライマーこそが最も皮膚感覚で理解できるものなのではないかとすら私は思っている。
余談になるが、アメリカの自然保護団体の初期のものは、多くがハンティングのクラブ、団体だった。ということを聞いたら今の自然保護論者たちはたぶん驚くのではないだろうか。だがそれは事実で、そのように彼らが自然を守らなければならないという考え方を持ち得たのは、野生動物を殺すために自然の中に分け入っていたからこそなのだ。
それを免罪符と言いたいわけではないが、なにしろクライマーは日々自然に深くコミットメントしている。そしてそれが故の絶対的な皮膚感覚をもっている。その皮膚感覚は、すべての自然愛好家のなかでも、かなりにコアといえるものだろう。そういった意味では我が国のクライマーも、自然保護ということに関して意見をもっていい、そしてそれに自信をもっていい、というのが今回言いたいことなのだ。
最後に、そうしたクライマーの自然保護に対する働きかけの一例として、アメリカのクライミング環境について少し触れておきたい。これは本誌099号で石鍋氏が書いていたとおり、まず2013年に合衆国国立公園局によって「クライミングは原生自然環境の利用方法として合法かつ適切なものである」と完全に認められ、それに伴い、国立公園内の岩壁にボルトを打つことも合法となった。その後2024年にそのボルト設置をあらためて禁止するような法案が国会に出されたようだが、それもすぐに撤回されたという。この働きかけをしたのがアメリカ山岳会アクセスファンド。周知のとおりアメリカ山岳会の中の有志によって設立されたもので、もう半世紀近くの歴史がある。もちろんその中心はクライマーだ。
何が言いたいかというと、こうしたクライマーの主張が社会に認められるのは、単にクライマーの声が彼の地で大きいというだけではない。これは私の勝手な、かつ、もしかしたらお花畑的な見方かもしれないが、彼らは自然保護に関して、まずしっかりした意見をもっている。そしてその意見は決して間違ったものではない、と一般にも認知されている、ということがあるのではないかと思う。そしてそれは我が国でも充分可能だと、私などは思うのである。
菊地敏之(きくち・としゆき)
1960年神奈川県生まれ。10代よりアルパイン、フリー両面で活躍。特にヨセミテに足繁く通うほか、アメリカ、ヨーロッパ、アジア各地で活動多数。元『クライミングジャーナル』編集長。主な著書に『新版 日本の岩場 上・下』『日本50名ルート』(白山書房刊)、『日本マルチピッチ・フリークライミングルート図集』『クライマーズ・コンディショニング・ブック』『定本 我々はいかに石にかじりついてきたか』(山と溪谷社刊)(山と溪谷社刊)などがある。
この記事は山と溪谷社刊『ROCK&SNOW 107』に掲載された記事を編集・掲載したものです。



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