文・写真=横山勝丘(アルパインクライミング推進協議会副会長)
奥飛騨の錫杖岳に「注文の多い料理店」というルートがある。クラックを主体とした素晴らしいラインには、かつて見苦しいまでに多くの残置支点が存在していたが、2006年夏、見かねた私とパートナーの佐藤裕介がそれらすべてを抜いた(ビレイ点は、下降用としての使用を考慮して残した)。
仲間や岩場で会ったクライマーは、おおむねポジティブな反応だったものの、もちろんネガティブな意見も存在した。曰く、「登れる者のエゴ」と。
「時間が解決してくれる」という確信めいたものはあった。リムーバブルプロテクションが普及し、クラッククライミングを嗜むクライマーも増えた現在は、そんなネガティブな意見は聞かなくなり(知らないだけ?)、ナチュラルなスタイルでの登攀が当たり前のように行われているようだ。
若さゆえの業か、良くも悪くもその行為が半ばゲリラ的に行なわれ、私自身も少なからず排他的な態度であったことは今でも覚えている。あれから20年近くを経て、私自身の考え方にも少なからぬ変化がある。
昨年から、私はアルパインクライミング推進協議会の一員として活動している。組織の活動としてルート整備は大きな位置を占めるが、そこにも様々な考えや手段があると思うようになった。
そんななか、ルート整備を推し進めていくのは前途多難である。ひとつだけ避けたいのは、私達の一存だけで一方的に物事が決定されるということだ。ここで明確な答えは出せないが、私個人の経験から、ヒントとなり得るいくつかのエピソードを紹介したい。
1 2022年2月 八ヶ岳赤岳主稜
継続登攀二日目の午後。ちょっとしたノリから赤岳主稜を登ることになった。以前登ったのは二十歳の時だから、約四半世紀ぶりだ。怒られるかもしれないが、しょせん八ヶ岳とナメていたし、まともにこの山に登りに来ることもなかった。
ところが、である。そのルートに足を踏み入れた瞬間から感動の連続だった。壁は夕日を浴びてひときわ大きく見え、さながらヒマラヤの氷雪壁のようだ。技術的には簡単でも、周囲に誰もおらず、情報がなにもなければ初登者にでもなった気分だ。アルパイン初心者の登竜門と謳われる理由は明白だ。こんなルートで冬のクライミングを始めたら、どんなに楽しいことだろう。そんなこと、これまで思いを巡らせることすらなかったが。
にもかかわらず、ルートの至る所に見られたピカピカのボルトには興醒めだった。これらが誰を想定して残されているのかは言わずもがなであるが、簡単にナチュラルプロテクションが取れる場所や頼りない露岩などに打たれたボルトが、このルートの本当の魅力をスポイルしているのは明白だった。初心者にこそ、自分自身の力でラインを見出し、プロテクションを取る事の重要性と面白さを伝えるべきなのに。
2 2011年秋 ヨセミテ渓谷ミドルカシードラル
レスト日にトポを眺めていて気になったのがスミス=クロフォードというルートだった。ボルト主体のスラブルート、最高グレードは5.11dとあるので、気楽にオンサイトトライできる、と。
取付に立って初めて、私達の浅はかさに気づくことになる。ボルトが見えない。それでも最初の2ピッチはなんとかなった。3ピッチ目。一本目のボルトにクリップすると、目視できる次のボルトは20メートル先に一本のみ。当時の私達には手も足も出せるものではなかった。3シーズンの歳月を費やしグラウンドアップで開拓されたこのルートは、ライン取りといいボルト位置といい、初登者の魂とセンスに満ちあふれていた。
で、話の本筋はここから。およそ30年前に開拓され、その後の再登者なぞ数えるほどのこのルートが、なんと真新しいボルトに打ち替えられていた!人気だから残すのではなく、残さなければならないルートだから残す。アメリカ人クライマーの確固たる哲学と信念を垣間見た気がした。
3 錫杖岳前衛フェース ラ・カンパネラ
クライマーが錫杖岳の前衛フェースを見上げたとき、おそらく多くの人が白壁と呼ばれるフェースの圧倒的な存在感に面食らうことだろう。
大学四年生だった私が後輩と一緒にこのフェースに向かうと、狙うライン上には既存のボルトラダーがあった(白壁カンテルート)。私はそのボルトのみならず、ルートの存在そのものを無視することにした。初登者へのリスペクトを蔑ろにするとかそういうことではなくて、ただ私自身がこのフェースにルートを拓きたかった。一週間の努力が実り、危ういエイドを強いられる緊張感の高いルートが完成した(体臭のカーニバル)。元々ルートの存在するところに、私達が無理やり割り込んだという構図だ。
それから十年以上が経った頃、友人の今井健司が尋ねてきた。
「白壁にフリールートを拓きたいんですが、ボルト打っちゃマズいですよね?」
私は答えた、「いいよ」。
その半年後、私が国内で最も素晴らしいと思うフリールートが完成した(ラ・カンパネラ)。ロケーション、ムーブ、緊張感、どれを取っても非の打ち所がない。
この一連の流れに対して、皆さんはどう感じるだろうか。一点補足すると、白壁カンテルートは素晴らしいルートだ。内容は単純なアブミの掛け替えだとしても、ボルトを打ち続けた初登者の根性は半端なものではないし、なによりこの印象的なラインを最初に登ったという事実だけで存在意義はある。そして我が事で恐縮だが、二十歳そこそこで体臭のカーニバルを登った私達自身も驚嘆に値する。
それでもなお、そこをフリーで登れるのであれば、それがもっとも良いスタイルであるとの確信があった。それを実行する今井健司であれば、間違った流れにはならないだろうとの信頼も。
私の考えは明確だ。50年後、ここに存在するルートは一本だということ。もちろんやりようによってはこのフェースに拓かれた三本は共存可能だが、時代の流行も技術の進歩も、さらにはこのフェースが登られた経緯を考えても、白壁カンテルートと体臭のカーニバルは消滅し、ラ・カンパネラが残るとの確信がある。
私は、私自身が登ったルートが消滅したとしてもそれが良い方向に向かっているのであれば、それ以上はなにも思わない。自分が納得のいくスタイルで登った事実は消滅しないのだから。
ルートの価値を左右するのは「50年後、100年後に意味のある存在として残るかどうか」であり、ボルトの有無やフリーであるか否かではない。オール・オア・ナッシングでは物事の本質は見えてこないし、それぞれのラインに相応しいスタイルは多様であっていい。
それらはすべて、クライマー一人ひとりのセンスと想像力に委ねられる。なんとも漠然とした話で申し訳ない。そんな漠然さをルート整備という公共性の求められる行動に落とし込むことの危うさも理解しているつもりだ。でも、事実なのだからしかたない。
もちろん良かれと思った行動が、数十年を経て間違っていたと気づくこともあるだろう。だから常にアップデートは必要だが、間違いを恐れるよりも熟考を重ねた上で行動に移すことのほうが大切だ。「岩に穴を開けたら取り返しがつかなくなる」との意見も尤もだ。岩に穴を開けないで済むのであればそれに越したことはないのは明確だけど、それでも打った本人の思いが伝われば受け入れられる。一方で、たかが支点一本の存在意義で議論が沸き起こることもあるだろう。ラ・カンパネラにしても、将来ボルトを使わずに登られるようになれば、当然のようにその扱いに対しての議論が生まれて然るべきである。
そんな面倒なことに関わりたくない、という向きもあるだろう。だけど、堅苦しく考えずに「再開拓」くらいの気持ちでルート整備を考えてみてはどうだろうか?私はかれこれ20年以上もの間、開拓という行為を自身のクライミングの中心に据えて活動してきたが、それは創造性の問われる実に面白い作業であった。再開拓もまた然り。ただ身体を動かすだけではない、クライミングの奥深さを知るきっかけになること請け合いだ。
まずはクライマー一人ひとりが、ルートや個々の支点、はたまたルート整備の意味を考え続けるということ。そして情報を共有し、様々な意見が交わされる。その積み重ねがより良いコミュニティとエリアを醸成し、やがて50年後、100年後の日本のアルパインクライミングを形成していくものだと信じている。
よこやま・かつたか 1979年、神奈川県生まれ。
5歳で白馬岳登山。8歳で登山に目覚め、以後、月一のペースで山歩きを始める。1998年、信州大学理学部入学と同時に信州大学山岳会に入会。卒業後は海外遠征を中心に据えた生活を送るようになる。アラスカ、アンデス、ヒマラヤ、パタゴニアなどに足を運び、2010年、岡田康とともにローガン南東壁「糸」を初登してピオレドールを受賞。パタゴニア・クライミングアンバサダー、国立登山研究所講師、信州大学学士山岳会所属。
この記事は山と溪谷社刊『ROCK&SNOW 101』に掲載された記事を編集・掲載したものです。
Commentaires